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視点を変えてみる!制服は日常生活において最高で最強な防弾チョッキ

制服は抑圧の象徴として扱われていますが、日常生活において最高で最強な防弾チョッキなのかもしれません。

はい、皆さんこんにちは。いんたらくとです。

 

ちぐはぐな身体―ファッションって何?

この記事では鷲田清一著の「ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)」を取り扱います。この本はファッション哲学の本です。服装の役割と制服の役割について書かれています。今回はわかりやすさを優先して順序を入れ替えているので、前後のつながりが悪いかもしれません。

 

 

書評としてはもっと立派なものがインターネット上では公開されているので、上級者の方はそちらをお読みください。

 

ちぐはぐな身体

制服というと、ふつう「不自由」の代名詞のように言われる。規律による拘束の印、画一性と没個性の印というわけだ。

p64

多くの若者は、自分がどのような存在なのかが全く定まっていないので、標準服という一律の型のなかに押し込められそうになったとき、真っ先に反発し抵抗の意思表示として着崩していました。
それまでは親が買い与えた服を着せ替え人形のように着ていただけなのですから、どのような服を着て、どのような表現をしていくのかは考えたこともなかったはずです。そんなある日、突然制服が強制されたら、とりあえず反発したくなるのも当然です。

 

日本という国では、人は、ことあるごとに、この被虐的なメンタリティに進んで埋没していくものらしい。そして、一旦、そちらに流れ出すと、すぐさま攻撃に転じ、あたりに厳しく目を光らせて、それに従順でないものを詰問し、告発し始める(中略)。けれども、ぼくらは決して「身分相応」飼いならしやすい存在になってはいけない。程々のサイズ、人あたりの良いイメージの中にすっぽり自分をはめ込み、そこで安眠を決め込んではいけない。慎ましく収まりきった<私>を絶えずぐらつかせ、突き崩すこと。そう、じぶんの存在がちぐはぐであるという負の事実を、僕らの特権へと裏返さなければ・・・・・・。ちぐはぐであるということは、自分の存在がガチガチにまとまっていなくて、むしろじぶんのなかにじぶんをゆるめたり、組み換えたりする「遊び」の空間があるということなのだから。

p69~p70

日本という国では不合理なルールや現実的でない主張があったとき、それに反対することなく無条件に受け入れるばかりか、他人にまでそのルールを押し付けようとする者が多くいます。様々な意見のひとつ、あくまでも自分の考えとして持っているだけならまだしも、その意見を押し付ける加害者として振る舞いがちです。

 

そのような意見におかしいと思ったなら決して、従う必要などありません。意見を押し付ける人々に対して、善良な人を演じる必要はないのです。画一的な主張が主流だからといって、その画一的な主張という安全地帯の中に隠れて個性を殺しながら生活する必要はありません。10人10色です。私たちは決まりきった存在ではなく、ちぐはぐな存在なのです。

 

確かに、日本ではなにかが規制されたときに「おかしい」と声を上げるひとはあまり多くないイメージがあります。また、おかしいと声を上げる人がいても、純粋におかしいと発言しているのではなく、何か真の目的が別のところにあるように感じたりして、支持しにくいということもあります。この本が刊行されてから約10年が経過して、多少は状況が変わりつつあり、change.orgのようなオンライン署名サイトが活用されることも散見されるようになりましたが、筆者の主張していることはいまでも変わりません。

 

 

自分の身体を認識する方法

ところで、私たちの身体は自分自身で見える部分は少なく、多くの場所を見ることができません。鏡を使えば見えると言う人もいますが、鏡を使って見える範囲というのも実に小さな範囲でしかありません。そして、鏡を使って自分の顔を見たとしても、鏡を使って見える自分の顔というのは他人に向けられた自然な表情ではなく、すでに固定された約束された顔なのです。

 

私たちは自分の身体を見られない

自分の感情の微細な揺れがそのまま出てしまうその自分の顔、僕らはコントロール不可能なままそれをそのままいつも他人にさらしている

p12

私たちは、本当に自然な状態の自分の顔を知らないので制御できるはずもなく、コントロール不可能な顔を他人に晒しています。自分の身体を自然な状態で眺めることができない以上、自分の身体というのは想像上の存在でしかないわけです。そのため、見えないがために想像がエスカレートしてしまい、恐怖を感じたり、理想と想像のギャップに苦しむ病気を抱えている人も多くいます。

 

真の知に至る出発点は無知を自覚することにある、とするソクラテスの考え方。

https://kotobank.jp/

哲学者のソクラテスは「無知の知」という言葉を残していますが、「何も知らないということを知覚したとき、わからないことを怖がる」これは正常な反応なのです。私たちが実は「コントロール不可能な顔を他人に晒している」ということを知っている人は、この話の理解は早いのではないでしょうか。

 

境界線を感じる心地よさ

私たちは身体を俯瞰して見ることができないので、外部と内部という明確な境界線というものを把握することができません。

 

しかし、境界線を把握する方法がまったくないわけではありません。

 

ひとつは、物理的な刺激を活用する方法です。私たちは触覚からほんの僅かながら境界線を感じることができます。

 

お風呂に入ったり、他人と触れ合ったり、運動したり、というような”皮膚感覚を刺激すること”をを心地よいと感じるのは、見えない範囲でも確実に存在しているという安心感を与えてくれるからなのです。

 

服を着るのも同じで、身体と”服”が擦れる感覚が私たちの存在を認めてくれる事によって、心地よく感じている面もあるのではないでしょうか。布団に包まると気持ちいいのはこちらに入ります。ただ、皮膚感覚の刺激は物理的なものなので、常時イメージ通りを維持するのが難しいという欠点があります。

 

もうひとつは想像に合わせて身体を演出する方法です。

 

自分が自分と認識している身体はあくまでも想像上の存在なので実体はありません。だから移り変わりやすいので、すぐにあやふやな存在に成り下がってしまうのですが、逆に想像に合わせて身体を飾れば「想像どおりの自分」を認識し続けることが可能です。

 

イメージ通りにラッピングすることができたなら、高い満足を得ることができ、移ろいやすい自分の身体のイメージを強化することにも繋がり、より心地よさを感じることができるはずです。

 

MEMO

もし、あなたがお気に入りの服をクローゼットに仕舞い込んでいるなら、それが着れるなら積極的に着たほうが良いということです。それが内と外を把握し、気負いを軽減する手がかりになります。

 

どうして境界線にこだわるのかというと、想像上の身体とはいえ、境界線が曖昧になったとき、私たちは私たちという自己を保てなくなるからです。心地よさを感じる行動の反対は、心地わるい。すなわち、存在が否定されている状態です。

 

他者の他者としての自分

少し本筋からは外れますが、自分の身体を俯瞰して見ることができるのは他者だけです。他者によって存在が認められたとき、外部と内部という明確な境界線というものを把握することができます。

 

仮想的な体験の前提条件

さきほど、物理的な刺激や演出することで自分という存在の境界を感じ、心地よい気持ちになれると書きましたが、それは絶対的な存在を確認する手段ではありません。あくまでも日常生活の中で仮想的に境界を確認して安心するための手段です。

 

前提条件として、すでに「”自分と自分の身体という存在”が実在するものであると確認してくれる人がいる人」である必要があります。要は人間らしい生活を送るためには協力者が必要なのです。

 

他者によって存在を許される

他者の他者としての自分の存在が欠損しているとき、ぼくらは、他者にとって意味あるものとしてじぶんを経験できない。だから、そういうことが続くと、ぼくらは自分自身になるために、「自分で、他者の世界の中に妄想的に意味ある場所を作り上げる」という絶望的ないとなみのなかにじぶんを挿入していかざるをえなくなる。

p132

自分自身ではどう頑張っても自分という存在を「想像」でしか確認する事ができない以上、他者による評価によって自分の存在を確認するしかありません。ここでいう評価というのは単純に「プラス」か「マイナス」と言う話ではなく、応援する価値がある・批判する価値があるというような、相手に自分の存在を許されているかという意味です。

 

他者にとって大切な存在であるならば「今の自分という存在」が存在することを確認することができ、精神的に安定した状態で自己を保てるのです。その逆は言わずもがな。お察しください。

 

つらくなったときに誰かに話すと楽になるというのは、他者が大切にしている自分という存在を実態として感じることができるからなのではないでしょうか。

 

炎上とクソリプ

ネット上には実に多種多様な人が生息しています。親切で優しいひとが多数ですが、なかにはいきなり噛み付いて暴言をはいたり、日頃の派手な行いを強調して自慢ばかりしている人もいます。

 

一見すると強そうに見えますが、実は孤立している寂しい人なのです。どこで失敗してしまったのかはわかりませんが、自分の存在を他者のなかに見いだせず、自己を見失っていて、暗闇の中をもがき苦しんでいる人なのです。

 

ちょっと話がそれてしまいましたので、次の項からは元に戻します。

 

服は機能的ではない

とっても雑に今までのことをまとめると、服を着るのは自己表現として重要ということでした。自分という身体の境界線を見えやすくし、自分という存在を強化するものなのです。

 

でも、服を着る理由としては、

  • 体を隠さなければならないから
  • 体を保護しなければならないから

が一般的です。

 

しかし、隠さなければならないから、保護しなければならないからという理由であるとするなら、あまりにも合理的でない服装が多いのです。

 

“ネクタイ”を締めたり、”ハイヒール”を着用する必要はありません。
ましては、あの”固くて窮屈な下着”こそ全く合理的とは言えません。しかし、その疑問を簡単に答えられる人はいません。誰もが黙ってそれを着用します。

 

2つのことだけが理由なら、もっと自由で合理的な服装であっても良いと思いませんか?

 

服飾とは、身体に合わせてモデルを作る行為ではなく、むしろモデルに身体を合わせる行為なのではないか

p38

本質的には必要のないものなのに、それが一般に当たり前のように存在しているのは、誰もが理想に想像の身体をあわせる行為として服を着用しているのではないかということが考えられます。

 

体に合わせた服が散発的に登場してもいつまで経ってもそれが主流にならないのは、私たちが身体に合わせた服では手に入れることのできない「何か」を、理想的なモデルに合わせた服によって獲得しているということとも言えます。

 

MEMO

ネクタイも窮屈な下着も”反抗している”とされる人でも当たり前のように着用することに意味があるのではないだろうか?

 

制服という防弾チョッキ

階級や職業、出身地などの差異をかき消して、個人がじぶんを個として意識できるよう促した衣服の一様化が、今度はそうした個人の特異性・独自性を曖昧にし、平板化するものとして、あるいは、個人を包囲してある「公認」のイメージの中に閉じ込めるものとして、受け止められるようになった。つまり、個人の画一化(ユニフォーム化)である。

p74

制服は抑圧の象徴のように受け止められていますが、本来は制服を着ることで周りの人々に比べて欠点を覆い隠すものでした。裕福とか貧乏とか、関係なく皆同じ条件に置かれたときに現れる個人の輝き、その人が持つキラリと光るものを浮かび上がらせる効果があったのです。

制服を着た瞬間から、その制服の組織の一員として認められます。様々な個人的な問題はすべて制服によって覆い隠され、責め立てられることがなくなるのです。

 

柵からの開放

高度成長期には自分らしさや他者との差別化が積極的に宣伝されました。

 

しかし、ある段階からは、

  • 差別化する必要があるのだろうか。
  • じぶんらしい必要があるのだろうか。

という疑問が人々の中に生まれてきたのです。

 

個を隠すことによって、日常の柵から開放され自由になれます。個人を特定する特徴がなければないほど、また匿名度が高ければ高いほど何をしても許されるという事実を知った人々は、次第に個性をアピールしないようになりました。

 

着崩すことが不要になった

だから、近年に制服を着崩すことが減ったのは、着崩すことで個性が生まれてしまい、せっかく制服の影に隠れて安心して様々なことにチャレンジすることができなくなってしまうからなのではないでしょうか。

 

個性が重視されていなかった時代には、できるだけ個性を出そうと着崩していました。しかし、いまではオンラインを通じて24時間つながりがあり、外と内の境界線が曖昧になりやすい社会になりました。境界が曖昧になると自分の存在が揺らいでしまうので、着崩すことによる個性の主張よりも、守られたいと思う人が増えたのが理由なのではないかと思います。

 

それに、制服がない学校も登場して、制服が単純に押し付けられるものではなくなりつつあるということも大きいと思います。積極的に制服を着たいという人々が現れているのです。そういう人にとっては、制服を着ることこそが可愛い・かっこいい自分の演出する手段なので、着崩して反抗する必要がないのです。

 

某県では中学卒業時に特攻服を着て集まるという風習があるそうですが、昔のように反抗としての着崩しではなく、かっこいい自分を演出する手段なのだとしたら、しっかり誘導を行えば暴力事件にはならずに安全に自己表現の場を作ることができるでしょう。

 

さまざまな制服

これまで制服を学生服と同義語として扱っていましたが、制服とは何も学生服だけに限定した話ではありません。会社の制服やスーツも同じです。ネクタイやハイヒールも同じです。あの窮屈な下着も社会的な制服に違いありません。

その証拠にスーパーで働いている人は派遣社員や契約社員そして、アルバイトと身分の違いがあるのにもかかわらず、みな制服を着た途端に同列になって「あの~店員さん?」と客から声をかけられるのです。

 

仮に、このときに対応が悪かったとして、制服の中に隠れている人は『お菓子コーナーにいた「店員」の対応が良くなかった』という誰彼を識別しないクレームになりますが、制服に隠れていなければ「◯◯が特徴の店員」と、怒りの矛先は個人に向けられます。
よほど悪いときは名札を確認しますが、そうでもない限りは「店の一員」でしかありません。

 

つまり、制服とは批判を正面から受けなくて良くなるスーパーチートアイテムなのです。

 

社会に溶け込むアイテム

個性が大切で、個性をもとに個人を特定する時代だからこそ、”誰でもない時間”と”失敗しても個人が特定されない”制服は価値があるのです。

 

上はスーツなのにサンダルを履いて歩いている人がいれば、まず怪しまれます。そういう怪奇の目から自分を守り、砂上の楼閣のような自分という想像の存在を維持するためのアイテムが、制服とネクタイやハイヒールを始めとした非合理的な社会的な制服たちです。

インターネット上では個人を特定されるような情報を隠して、柵から離れて自由を謳歌している人もいますが、現実世界でも制服を着ることで個人の特定を難しくし、ネット上程ではないにしても自由を謳歌することができるのです。

 

制服や社会的な制服を着用した上でおしゃれを楽しむことで、自己を守りつつ個性を発揮できるので、身体と自分の身体のイメージは更に輝くものになるのではないでしょうか。

 

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