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Facebookで検閲された自由の象徴&誰もが気分で検閲している社会

Facebookで女神が検閲されました。しかし、総ツッコミ社会のいまとなってはFacebookだけの問題ではないように思います。

はい、皆さんこんにちは。いんたらくとです。

 

検閲された女神

驚いたことにFacebookで検閲されたのはこの絵画です。この絵画は教科書や資料集で誰もが一度は目にしたことのあるというくらい有名な「民衆を導く自由の女神」です。ウジェーヌ・ドラクロワの作品です。

 

フランス7月革命のときに、旧態依然としていた王政を排除し、民衆が(武力によって)勝ち取った自由の象徴として女神が描かれています。女神=自由です。自由は武力で勝ち取るものなのです。自由とは自ら勝ち取るものなのです。さて、その女神が検閲されたのです。日本ではあまり深い思い入れがある方はいないと思いますが、フランスにでは自由の象徴として親しまれています。

 

検閲された理由

【3月19日 AFP】交流サイト(SNS)最大手フェイスブック(Facebook)は18日、フランスの巨匠画家ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugene Delacroix)の傑作「民衆を導く自由の女神(Liberty Leading the People)」を使用した広告を、上半身裸の女性を描写しているとの理由で掲載禁止としたことは間違いだったと認めた。

http://www.afpbb.com/articles/-/3167894

AFP通信によると、その理由は「裸」だから。自由の象徴をFacebookは一瞬でも検閲したのです。これは抗議の声が起こらないほうがおかしい。結果的に間違いであったことを認め、速やかに問題は修正されたそうです。しかし、Facebookでは以前にもベトナム戦争のときに撮影された歴史的画像を排除したという前例があります。以前や今回の作品は有名なものだったからこそ大きな問題になったのでしょうから、その間も不適切な検閲は続いていたと考えるのが自然です。

 

Why should not we see?

https://booth.pm/ja/items/798545

 

記事には続きがあって、どうにかこの民衆を導く自由の女神を掲載しようと工夫したということが記述されていました。

掲載禁止となったのは仏パリで上演されている舞台のオンライン広告で、劇の監督を務めるジョスラン・フィオリーナ(Jocelyn Fiorina)氏によると「広告は公開して15分ほどでブロックされ、ヌードを掲載することはできないとフェイスブックから通知があった」という。

そこでジョスリン氏は、女神の裸の乳房を「フェイスブックによる検閲」と書かれた旗で隠して広告を再投稿したところ、今度は禁止されずに済んだという。

http://www.afpbb.com/articles/-/3167894

もし、「民衆を導く自由の女神」のような芸術作品をFacebookに投稿したいなら、「検閲済み」という覆いで隠せば確実に公開できます。実際に検閲済みという覆いが有効に機能したということです。

 

検閲はセンシティブなこと

確かに芸術作品とそれ以外を区別するのは難しいかもしれませんが、一般的に問題ないとされているものまで排除してしまうとは検閲がいかにセンシティブなものであるかを認識できていないのではないかと感じます。不適切なコンテンツを排除することは必要ですが、明確なルールの上で検閲する必要があります。気に入らないからと言うだけが理由なら今すぐその仕組は更新すべきです。

 

一律にBANしているなら、絵画作品は掲載禁止というルールにすればよいです。自由を装って過剰に検閲していることが害なのです。

 

気分で検閲している社会

インターネットが発達して、パソコンが普及したのに続いてスマートフォンが普及しました。誰もが簡単に情報を発信できる様になりました。そして、誰もが発信した情報に対してコメントができる様になっています。そうなるとFacrbookといういちwebサービスとその検閲スタッフの問題だけではありません。

 

灰かぶり姫

私やあなたも「気に入らないからと検閲」しているかもしれません。誰もがうっかり「気分による検閲」に加担しているかもしれない。どんなに価値のあるものでも、私やあなたのたった一言の検閲によって灰かぶりになってしまうのです。灰かぶり姫は報われるまで我慢しますが、現実の人間はそんなに頑丈ではありません。

 

私やあなたは、他の人が知る自由を妨害する権利はあるのだろうか。その人が発信する自由を制限する権利はあるのだろうか。

 

検閲する過程

おそらく、意に反することを書かれたことに怒りを覚えるものがあるのでしょう。「痛いところをつかれた」といった思いもあるのかもしれません。自分の満たされない心や生活、ゆきづまった人生を見透かされた気もしているのでしょうか。触れられたくない傷や克服しがたい劣等感などに、ダメージを与えられた思いをしているのかもしれません。そこで感情に任せて、「反論のための反論」をしているのではないか、と思える人がいます。

http://www.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/92290/052500009/

誰かの発信に何もおかしなことを書いたり発言したりしていなかったとしても、都合の良いように切り貼りして解釈していませんか。そして、批判にも満たない暴言や揚げ足取りを行っていませんか。10人いれば10人が違う意見を持っています。不適切という言葉を投げかけるのは簡単です。しかし、その不適切という言葉が不適切である可能性には十分に考慮するべきであると思います。絶対的に正しいと思い込んでいると足を踏み外してしまうでしょう。

 

Facebookもスタートした当初はイケイケドンドンでも成長できたかもしれませんが、長くサービスを続けていくにはそろそろ多様性や存在意義について熟慮したほうが良さそうです。そうしなければ足を踏み外す日が近づいてくるのではないかと思います。人間もWEBサービスも同じです。

 

やっぱ良くないと思う

私は気分で検閲するのは良いとは思いません。絶対的に駄目と認められるもの以外を曖昧な基準で消してしまっては。検閲の役割は大きいです。本当に消すべきものなのか、しっかり判定してください。

 

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