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余暇は賃金で計算できるのか?相手の価値観を「賃金」で否定する人々

余暇は賃金で計算できるのでしょうか?相手の価値観を「賃金」で否定する人々がいますが的外れで中傷的だと思います。

はい、皆さんこんにちは。いんたらくとです。

 

余暇の過ごし方

とあるアミューズメントパークへは日本中からおよそ3000万人が集まります。1983年には3900円だった入場料ですが2016年には7400円とじわじわと上がり続けてきました。値上げしても混雑は解消されません。混雑していると分かっていながら、楽しかったからまた行きたいと言います。また、シアトルの女神でドリップコーヒーを注文すると280円です。利用する人は280円でWi-Fiや空調の整った空間で過ごせるのだから安いと言います。

 

もっと空いている場所も、もっと安い場所もあるのにそこを選ぶのです。合うか合わないかは別として、そういう価値観もあります。なぜでしょうか。

 

余暇は賃金換算できる?

とある全国的なキャンペーンで「300円でドーナツ2個プレゼント」というイベントがありました。ドーナツ店には多くの参加者が殺到し、300円相当のドーナツに数十分の”待機列”が形成されました。

 

時給300円の仕事?

それに対して「ドーナツ2個のために1時間並ぶのは時給300円」という意見がありましたが、私はそれは違うと思います。時給1500円で働いているとして、1時間並ぶくらいなら1時間労働すれば5倍のドーナツが手に入るのは、正しいように見えます。

 

賃金で換算するなら、Twitterの時間も日記を書く時間も無駄で、労働のほうが効率がよい…?(それって本当にそうですか?今あなたがTwitterをしている数十秒は、仕事の打ち合わせをしていればもっと価値のあるものになるのでは。)

 

その理屈で「余暇の代わりに労働すべし」というのならば、旅行なんてもっての外です。3日間の旅行で1日8時間労働、時給1500円の場合の機会損失が36000円です。交通費や宿泊費なども合わせて何万円もかかります。3日間の出張ならば賃金もでますし、交通費や宿泊費も会社から支給されるので、そちらの方が良いと言うことになります。

 

しかし、私は「余暇は余暇で仕事は仕事でしょう?」と思います。余暇から得られる物と仕事から得られる物は同じですか?

 

余暇から得られるモノ

私は同じだとは思いません。やっぱり、給料をもらって指示されて動くのと、時間やお金を掛けてでも好きに過ごすのは全くの別物だと思います。理想は仕事も余暇も「好きなことで生きてく」ですが、現実的にはそうでない人のほうが多い。

 

何でもない日にドーナツを買うのは日常ですが、お祭りでドーナツを食べるのは非日常です。誰もが、24時間好きなことをして過ごす生活しているわけではありません。だからこそ、ささやかな非日常から日常で過ごす力を得るのです。

 

私は、余暇には余暇の価値があるので簡単に時給換算することはできないと考えます。

 

24時間働けますか?

日本には、オンとオフがはっきりしない時代がありました。「24時間働けますか」というCMが放映されたバブル期です。その時は働けば働いただけ給料が出ましたし、物質的な幸せを追い求めていた時代です。

 

物質的な幸せという価値基準

そんな時代はもう終わりました。終わって欲しかったかどうかは別として、物質的な幸せを追い求めていた時代は、ある日突然に終わってしまったのです。

 

この日は1時間や2時間待てば無料でドーナツをもらえたかもしれないが、今の日本人は自分の1時間よりドーナツの方が価値のあるものだと考えているのだろうか。1時間働いた賃金でドーナツを待たずに買おうとなぜ思えないのか。

無料でドーナツをもらうために長い列を作るというのも信じられない。災害時などの食糧支援時に並ぶのはわかるが、これほど執着してまで並ぶほどのことだろうか。あまりにも見苦しい。

出典 http://news.livedoor.com/article/detail/13710668/

 

ものが良いからとか、ものとしての価値が高いからとか、そういう見方だけで判断できる時代は終わったのです。

 

精神的な幸せという価値基準

これからは物ではなく体験がキーワードになってきます。人によって判断の尺度が違うのはもちろんですが、少なくとも『従来の尺度』では物事は測れない時代になったということです。尺貫法からメートル法に変わったようなものです。

 

物質的な満足よりも、精神的な満足を求められるようになっています。インスタ映えも、食べ物を求めているわけではなく、その時の空気感やその空気感を発信することに重点を置くようになったから、撮影が終わったらゴミ箱にポイなのではないでしょうか。(ゴミ箱にポイは、さすがにひどいと思いましたが、インスタ映えの人々がお店から買っているのは『物』ではないということです。)

 

 

だから、余暇でも仕事をしたらと仮定するのは・・・。そんなのありえないですから時間の無駄です。また、「仕事をしたら」と批判するのはもっと的はずれです。

 

だれかさん

保育園落ちた日本氏ね
あなたが保育園を運営すれば落ちないですよね?

クソリプ

 

「保育園落ちた日本氏ね」に対して「あなたが保育園を運営すれば落ちないですよね」と言うくらい無意味で無価値な話です。(その通りなのですが。)

 

無料化した池上線の話

よかったらぜひ、池上線沿線をぶらぶら歩いてその良さを感じてみてください。

出典 https://seikatsumeisho.com/

さて、東急池上線無料でーで池上線は大混雑しましたが、生活名所プロジェクトの一環として実施されたものです。無料化することが目的のイベントではなく、無料化することはあくまでも手段のイベントでした。

 

結果として満員電車&大混雑の街になってしまいましたが、それはイベントが成功したという証拠です。確かに、池上線全体を活性化するイベントとして見たときに、資源のある駅や地区のみに人を集中させるような「コロッケを無料で配る」のはどうなのかと思いますが、それはまた別の話です。

 

目的:池上線沿線をぶらぶら歩いてもらう

手段:池上線を無料にして、途中下車を促すことによって通行量を底上げする

 

一般に公開されている資料をもとに目的と手段を考えてみましたが、このようなものであったと考えられます。

 

広報活動とイベント

イベントは成功しました。池上線の遅延情報が首都圏の鉄道で配信され、ニュースになりました。

 

「混んでいる場所に行くのは馬鹿だ」と言う人々が、余暇に日頃から池上線を使用していれば、宣伝していれば「知名度向上キャンペーン」はする必要がなかったということです。

 

イベントで動員数が確保できなければ、そのイベントは次回以降は実施されませんし、鉄道などの交通機関では乗降車数が少なければ廃止になります。お高くとまっているだけでは守れないのです。

 

池上線を救うのは、乗らずに批判する人ではなく、混雑を厭わずに乗りに行った人です。無料だから行った人も、買い物に行った人も、食事に行った人も目的は違っても、別にいいですよね。どちらが貢献しているかは言うまでもありません。

 

その批判はあたらない

実は「混雑しているのにわざわざ行くなんて馬鹿らしい」という個人の意見や、「交通機関を混雑させるなんてひどいイベントだ」なら、賛同するかは置いておいてまだ理解はできます。

 

でも、「混雑しているのに行く人は・・・」や「お金を払って空いているときに行きたい」と言っている人は、「もし、空いていたら、本当に行く気あります?」と言いたい。だって、きっと行かないでしょう?そういう人が空いている時に行っていれば、乗客は増えていて、知名度はもっと高かったはずですから。

 

それに、「普段使っている人がかわいそう」なら、イベントはイベント会場以外では出来なくなってしまいます。新刊の発売イベントも東京マラソンも。本当にそんな窮屈な世界を望んでいるのでしょうか。

 

私は望んでいませんよ。すべてが計画通り動くディストピアな世界は。

 

私も乗りに行ったからこのような考えなのではなく、このような考えだから乗りに行きました。乗りに行って宣伝することが、無料で全線乗らせていただいたことへの恩返しです。

 

 

おわりに

完璧は存在しません。どのようなものでも、AがBというプランを、Cという結果から批判を展開するのは簡単です。

 

自分とは価値観が違うからと言って、自分の価値観をもとに、ましてや結果を見てから「意味ない」「無駄だ」「馬鹿だ」と否定するのはあまりに卑怯ではありませんか。尺度が違うことを受け入れる勇気が必要です。

 

今は多様性の時代ですから、少なくとも批判を装った中傷やレッテル貼りはやめるべきです。

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