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勝ち取れ!本音を言いたいなら言える環境を、認めてくれる強き仲間を

自由は待っているだけでは訪れないのです。能動的に動き仲間を集め、本音を言い合える環境を自ら構築しなければならないのです。

はい、皆さんこんにちは。いんたらくとです。

 

本音と建前

本音と建前というと、日本と日本人の特徴とも言える、あの回りくどく面倒くさい表現技法です。建前という挨拶をして、信頼できる相手と判断したら本音を少しずつ明かす。この回りくどいやり取りによって相手を傷つけることなく、相手の意向を確認する事ができます。

 

最近、現実でもネットでも思うことがありまして、 「本音」と「建前」ってありますよね? なんだか「建前」の比率高すぎません?

http://osamuchan1.hatenablog.com/entry/2018/04/02/030700

でも、結構この本音と建前という構造に辟易としている人は多いのではないでしょうか。

 

主張は傷つけるもの

本音が攻撃の姿勢なら、建前は守備の姿勢です。誰もが知らず知らずのうちに誰かを傷つけるのを恐れています。誰かを傷つけること(誰かとは自分も含める)で、良くない結果をもたらすという経験則に基づくものがあります。

 

多少効率が悪くても避けて通れるならトラブルを避けて通らなければ、疲れてしまうこともあります。すべてを受け入れられるほど強くはないのです。

 

2項対立で煽るな

よく本音と建前を真逆の存在のように捉えている人がいますが、だからといって私はこの「本音と建前」と2項対立させることが良いとは思いません。

 

対立する事項には違いませんが、本音と建前はあくまでも調整手段のひとつであり、どちらかが欠けても意味を失ってしまうものだと思うからです。

 

建前は前段で本音が後段です。

 

欧米式でははじめから大きく議論しますが、日本式では例え話を交えて少しずつ議論を深めていくことができるという利点もあります。だから、対立を煽るだけでは賛同してもらえません。建前にメリットを感じている人がいるという現実があります。

 

建前しか言えないのでは深い議論は生まれません。だから、本音も言える環境をつくることは賛成です。でも、おかしいというだけで行動が伴わないのであればそれこそ逃げの手で、自分を守るための建前なのかなと思います。

 

自由で住みやすい環境

さて、自由の国といえばアメリカですが、自由の代わりに自己責任という代償を背負うことになります。相手のことを認めた上での自由ではなく、自分の行動を制限されないための自由なのです。思考方向は消極的です。逆にとっても積極的に相手のことを認める気風の国があります。それが、フランスです。フランスでは、市民の権利がとても大切にされています。この記事では簡単に書いていますが興味がある方は「世界史本」を読んでください。

 

そのフランスの国歌をご存知でしょうか。フランスの国歌は「ラ・マルセイエーズ(La Marseillaise)」という曲です。この曲はフランス革命の革命歌で、マルセイユの連盟兵(義勇兵)が歌って広まった曲です。

 

【6番】

神聖なる祖国への愛よ
我らの復讐の手を導き支えたまえ
自由よ 愛しき自由の女神よ
汝の擁護者とともに戦いたまえ!
汝の擁護者とともに戦いたまえ!
我らの旗の下に 勝利の女神よ
汝の勇士の声の下に 駆けつけたまえ!
汝の瀕死の敵が
汝の勝利と我らの栄光とを見んことを!

「自由の象徴の女神とともに戦うことで、自由を味方につけよう」という趣旨のの内容ですが、つまり、自由を手に入れるためには戦い続けなければならないのです。傷つき涙を流しても、進み続けなければならないのです。

 

ぼくらは決して「身分相応」飼いならしやすい存在になってはいけない。程々のサイズ、人あたりの良いイメージの中にすっぽり自分をはめ込み、そこで安眠を決め込んではいけない。ちぐはぐな身体p69

主義主張と期待される像とが板挟みになったとしても、今の地位を甘んじて受け入れてしまっては、思うようにはいきません。今の状況を変えたいと思っているなら、勇気を持って一歩を踏み出さなければなりません。それが大切なのです。

 

今の状況が良くないと感じているならその状況を打開するためには、自己との戦い、仲間をともに戦いに挑まなければなりません。

 

自己との戦い

他者の他者としての自分の存在が欠損しているとき、ぼくらは、他者にとって意味あるものとしてじぶんを経験できない。だから、そういうことが続くと、ぼくらは自分自身になるために、「自分で、他者の世界の中に妄想的に意味ある場所を作り上げる」という絶望的ないとなみのなかにじぶんを挿入していかざるをえなくなる。

ちぐはぐな身体p132

私たちは他者によって認められなければ存在することができません。それが、家族や友人だけでなく同僚や得意客など、自身を映す鏡の数が多くなればなるほど、安定した像が自分の中に投影されるようになります。年を重ねるうちに他者の承認を能動的に受ける必要がなくなるだけで、他者の承認が必要なくなるわけではありません。他者の承認を得ようとしている人を見て笑える人は、幸せなことに誰かが存在をしっかり支えているのではないでしょうか。

 

「人は思うよりもひとりぼっちじゃないんだ」

 

何が言いたいかというと、歪んだ形でも愛されたことがない人間が、自分を「無条件で愛す」ことはできないのです。経験からはっきりしたことです。人間は他者との関わりの中で生きていることを自覚し、支えてくれている人の顔を思い浮かべられるようになって初めて自分を信じることができるようになる・・・。

 

支えてくれている人というと大層に聞こえますが、ほんの些細なことでいいのです。

 

街なかでは立番中のお巡りさんと雑談している老人がいるのを見かけ、「暇そう」と思っていましたが、あれは自分を守るためにとっても大切なことなんだなと今では思います。

 

他者を巻き込むことは自分との戦いも並行して発生します。もし、自分との戦いの準備が整っていないなら、ひとりで抱え込まずに誰かと話しましょう。仲間を集めてボス戦に備えよう。

 

仲間と戦う

仲間は新たな気づきを与えてくれる。
仲間は一緒に泣いて、一緒に笑ってくれる。
そういう仲間を集めることが一番の近道。

年齢も住んでる街も関係ない。

 

「衆寡敵せず」です。

 

自由のために、居場所を確保するために、戦わなければなりません。その過程で傷つくこともあるでしょうが、それは必要な犠牲。

 

おわりに

最後に建前を言います。私は皆さんの人生を担保することはできません。ここに書いてある内容も読書感想文でしかありません。この考えが私のすべてではありません。

 

なぜなら、本音を言うと、こんな回りくどいことはどうでも良くて、疲れているときや答えのないことに悩んだときは「おやつタイム」にしよう!だからです。

 

 

 

さあ、始めよう。自由との戦いを。

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