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成田空港開港の闘争から和解までの歴史を展示した空と大地の歴史館へ

空と大地の歴史館 外観

成田空港開港の闘争から和解までの歴史を展示した空と大地の歴史館へ

はい、皆さんこんにちは。いんたらくとです。

空と大地の歴史館

空と大地の歴史館は航空科学博物館に隣接している、三里塚闘争と和解に至るまでの歴史について展示している資料館です。三里塚闘争は成田空港開港の負の側面です。今でこそ東京の玄関口として羽田空港と並んで多くの利用者が訪れる成田空港ですが、成田空港が開港する準備の段階では死者もでるほど過激な武力闘争がありました。

空港開港までの成田闘争

現在の成田空港周辺は御料牧場があったのどかな農村地帯でした。軽井沢などの別荘地をイメージすると分かりやすいかもしれません。別荘地と言えば聞こえは良いですが、自然以外に周囲には何もなく住むには不便な土地でした。それでも住んでる人が居るには訳があります。

三里塚周辺というのは生活困窮者に向けて国有地である御料牧場の敷地が払い下げられた土地でした。農民たちにとっては、苦労しながら開墾し守ってきた土地です。そういう土地に政治的判断で突如として空港を造ることが決定しました。長く守り抜いてきた土地を一方的に手放すように言われたら反発が起きないはずがありません。農民たちの反対運動に過激派も便乗して暴力的な闘争が繰り広げられました。

候補地にはもっと都心に近い場所もあったのにもかかわらず千葉県の不便な場所にできたのは政治的な事情がありました。増え続けていた航空需要に対応するために速やかに新しい空港を整備する必要があったのです。だから都会のように開発が進んでいない農村の三里塚が選ばれたのです。

和解とその後

時代は昭和から平成へと移り、冷戦の終結でさらなる旅客移動が行われることが見込まれていました。開港以来凍結されていた2本目のB滑走路を改めて建設することになり、このタイミングで地元住民との対話を行うことになりました。三里塚闘争は、地元住民との意思疎通をおこたり国の政策として強引に進めたために起きた「ボタンの掛け違い」であったと総括しています。芝山鉄道の整備が約束された事によって、最後まで残っていた空港反対派も鉄道駅に近い便利な場所への移転に応じました。地元住民との積年の問題はようやく解決となりました。

おわりに

成田空港の反省を生かして、ドイツのミュンヘン空港が建設される際には、200回を超える公聴会を開くことで地元住民との対話を行い十分に納得の上で移転してもらうという流れができました。資料館の規模としては大きなものではありませんが、中立の立場で闘争の歴史が展示されており、どちらが正しくてどちらが正しくないという単純な結論とは別に考えさせる内容となっています。成田空港を利用するからには一見の価値はあります。

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