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北方防衛の要の旭川にある博物館!旧陸軍第七師団についての展示がある「北鎮記念館」を訪れる

北方防衛の要の旭川にある博物館!旧陸軍第七師団についての展示がある「北鎮記念館」を訪れる

はい、皆さんこんにちは。日常生活が楽しくなる情報をお伝えすることを心がけている、旅する写真家のいんたらくとです。

北鎮記念館

今回は旭川にある北鎮記念館を訪れました。北鎮記念館は陸上自衛隊の旭川駐屯地に隣接して設置されている博物館です。旭川は北方防衛の要としてもとても重要な土地となっており、古くから軍都として栄えてきました。入館料は無料で、時間によっては広報担当の方による解説付きで見学することができます。

旅順要塞の攻略戦でも活躍したと言われる旧陸軍第七師団の拠点となっていたことからそれに関連した展示が行われています。北鎮記念館の建物前には第七師団時代に使われていた立哨用のボックスが残されています。

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展示の様子

入口から中に入るとまず荷物を収納して運んでいた箱や大八車が設置されていました。また、日露戦争時に内閣総理大臣を努めていた陸軍大将桂太郎の書が飾られていました。到着すると広報担当の方による館内ガイドツアーがまもなく始まるということを教えていただいたので、ちょうどよいタイミングでもあったので参加することにしました。

第七師団の歴史

北鎮記念館のなかでも特筆すべき展示物は第七師団の行動記録です。当時の記録は軍事機密として扱われており、大東亜戦争(太平洋戦争)の末期に原則としてすべて破棄するよう命令されていたのですが、とても貴重な資料をなんとしてでも残したいと油紙に包んで畑に埋めて保存したそうです。この資料が残っていることによっって第七師団がどのような動きをしたのか後世でも分かるようになっています。

屯田兵の生活

屯田兵の歴史は北海道開拓の歴史と重なります。原野を切り開き畑を作って生活していました。開拓時代に使われていたという日用品や道具が展示されていました。冬の間に大きな鋸を使って木を切り倒していたので、雪が溶けるとぴょこんと長めの切り株が残されていたそうです。

歩兵銃として支給されていた銃も展示されています。屯田兵は開拓することと防衛することの2役を任されていたので、農作業の傍らで兵としての訓練も実施していたそうです。

第七師団の編成

屯田兵によって開拓が進められていた北海道ですが、北方地域の防衛の重要性について検討が進められ、第七師団が編成されました。歴代の第七師団長の名前と顔写真がありましたが、なんとゴールデンカムイでもお馴染みの名前がちらほらと見られるのはもしかするとこの師団長の名前がモチーフになったのかもしれないとのことでした

階級章や軍隊手帳の実物が展示されています。

第七師団の規模

第七師団の規模を知ることができる立体模型があります。残された記録によれば、第七師団だけでも一つの街が作られているような規模だったそうです。「ゴールデンカムイで主人公たちが走り抜けたのはこの位置からこの位置まで…」というマニアックなネタも紹介してくれたので、よりイメージが深まりました。

装備品等

肋骨服と呼ばれている不思議な模様の軍服も展示されていました。明治時代初期の軍服といえば紺色のイメージがありますが、陸軍の軍服と言われてイメージするのはこちらのオリーブ色の服ではないでしょうか。

北海道は雪国なので、移動のためにはスキーも利用されています。スキー場で滑るためのスキー板には専用の靴とロックする機構が付いているのですが、軍用で使われていたスキー板は足を引っ掛けるための紐しかついていないようです。乗るにもコツが必要となっているそうですが、使い慣れてしまえば着脱も自在で、上り坂でも歩いて登れるため便利だそうです。

日本刀や脇差を持っているのが将校の証でもありました。共通の規格で作られたものやこだわりのものなど各種展示されていました。

旭川出身で第七師団長の娘であった渡辺和子氏についての展示もありました。

制服もあれば革靴もありますが、明治時代に革靴が支給されていたのは将校からで一般兵には無かったそうなので、ゴールデンカムイの作品中で主人公の杉本佐一が革靴を履いているのは自分の靴ではなかった可能性があるそうです。まさに小ネタを挟みつつ展示品を順番に紹介してくれていました。

戦役と生活

戦争が行われていたときの生活に視点を置いた展示となっています。紙幣の製造が追いつかなかったり、両替が必要になるなどの不都合があったため、軍票という引換証が現金相当のものとして使われていました。貴重な資料が多数展示されているので紙幣や軍票の移り変わりに興味がある方はこちらの展示はとても楽しめるかもしれません。

樺太は日本とロシアの両国に出入りする北方民族が在住しており、大日本帝国とロシア帝国の共同統治領とされていた土地でした。日露和親条約(1855年)の際にも領有権については棚上げされているほどでした。しかし、ロシア帝国による南下政策へ対応することが困難と判断されたため、樺太千島交換条約(1875年)により樺太を手放すことが決定されました。このときに放棄したとされる範囲について条約での文言が曖昧だったことが北方領土問題の原因のひとつにも繋がっていると言われています。

その後、日露戦争により大日本帝国が勝利したことによって、講和条約のポーツマス条約(1905年)が締結され、再び樺太の南半分が再び大日本帝国の領土となりました。日露和親条約からポツダム宣言受諾(1945年)までの間に領有権が移り変わっていますが、国境と言っても1905年以降に設置された『国境を示す石碑』があるだけで、実際には日露雑居で両国を行き来していたという生活スタイルは維持されていたようです。現実的には雑居地となっており、双方にとっても複雑な場所であったことは間違いありませんでした。

旭川の中心を流れる川に軍の架橋訓練として立派な橋『旭橋』をかけたというまるで一休さんのような解決をした初代旭川市長の岩田恒氏についての展示もありました。資材を旭川市が負担し軍が作業を担当することで、市民は立派な橋をわたることができるようになり、軍は実物大の架橋訓練によって実力をつけるという一石二鳥の功績を残しました。軍都旭川ならではの出来事とも言えるかもしれません。

傷病軍人が使用していたとされる義足や杖などもありました。

屯田兵用の建物を再現した模型だそうです。北海道の冬はとても冷え込みが厳しいところ本土仕様で薄い床に薄い壁であったことから苦労したことは想像に難くありません。

当時のカメラも覗き込めるように設置されています。レンズを通して見ると上下が逆さまに見えるのが特徴的です。

自衛隊PRコーナー

自衛隊PRコーナーもあります。最近の活動としては平和維持のため国外派遣されたり、災害派遣で救助活動を行ったりということが展示されていました。

記念撮影コーナー

記念撮影コーナーもあります。旧第七師団の制服を着用して記念撮影をすることも可能となっています。棚にはゴールデンカムイにちなんだサインも設置されていました。この時はすでに期間が終わってしまっていたそうですが、期間限定でゴールデンカムイのパネルも設置されていたことがあったそうです。

おわりに

ガイドツアーでは見所を中心に見て回ったので一部割愛されている部分もありましたが、ざっくりと第七師団の歴史や使用していた装備を中心に紹介してもらうことができました。特にゴールデンカムイが好きな方には小ネタが聞けるのでかなり面白く感じるかなと思います。ゴールデンカムイを知らなくても、ふらっと立ち寄るのであればガイドツアーに参加したほうがより楽しめるかなと思います。入館無料で歴史や貴重な資料を見ることが出来るので、ぜひ訪れてみてください。

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